失敗の秘訣?
I don't know what the secret to success is.
But I know the secret to failure: and that is, trying to please everyone.
(Bill Cosby)
ビル・コスビー(アメリカのコメディアン)という方の言葉だそうです。
コレちょっと似てませんか?
「成功の秘訣はわからないけど、失敗の秘訣は知ってる。それは、目の前の人全員を喜ばせようとしてしまうこと」
訳間違ってるかもしれませんんが。こんな感じかな??
そうだとすると、コレって・・・
いつも私たちが話してることと似てませんか?
目の前にいる人すべてを喜ばせようなんて思ったら、結局、失敗する。
自分の一番欲しいものは得られない。
全ての人に好かれなくたって、喜ばれなくたって、
いいんですわ。
そして。ほとんどの人が、なぜかとても喜んでくれるコミュニティもある。
そこにいればいいんですわ。
自分がしたいことを喜んでくれない人のところで、喜んでもらおうとするということ自体に無理があります。
目の前にいる人すべてを喜ばせようと、自分を殺したり、しなくていいんです。
「失敗の秘訣なら知ってるよ」なんて面白いですよね。そう。使わなくていい秘訣です笑
つまるところ成功の秘訣は「目の前の人すべてを喜ばせようなんて思わないこと」
ってことなのかな。
もちろん、目の前のすべての人を喜ばせたいと思って行動することは大事。
でも、結果、わかってもらえない人がいても、まあ、そんなものだ、と思えることも大事。理解できない人を追いかける必要はないという感じでしょうか。
自分の力は自分で使う。何かに明け渡してどうするの?
「もしも私が左手にエイズを治す手段、右手にタバコをもって「さあ、どちらかほしいほうを取りなさい」と言ったとしたら、頭ではエイズの治療法を選ぶだろうが、彼女の気の回路は、迷うことなくその一本のタバコのほうに向かって行くだろう。」
「他力本願人間が自分の気の回路を接続させる対象とは、自分の力を渡してしまった人間や物なのだ」
上記の文章を読んだとき、すごくわかりやすいと思いました。
私が相談を受ける人や、友だちや家族。
「治したい。どうしたらいいか」「お金に困っているどうしたらいいか」と、相談してくるのに、私のアドバイスを「実行はしない」人もいます。
なぜなのか???と、小さいころは、大変不思議に思ったり、悲しかったりしたものですが、今は、そんなものだったのだとも思います。
もちょっと私たちの日常生活に落として上記の文を書いてみると
↓
もしも私が
左手に「節約しお金を貯めつつ、健康になっていく、体にいいものを選んで、計画的に買うこと」
右手に「コンビニで売っているクッキーやチップスや大福やアイスをその時の気分でいつも何個か買って帰り、食べること」
をもって「さあ、どちらかほしいほうを取りなさい」と言ったとしたら、「頭ではそりゃあ左手がいいとわかる」けど、あなたの気の回路は、「迷うことなくその時の気分を優先し、コンビニで好きなお菓子を好きなだけ買う」ほうに向かって行くだろう。
↑
みたいな感じになるのでしょうか。
左手のが欲しいのに、いつも右手の行動を選んで「だって食べたかったんだもの」という人は、自分の「ムード(気分)」で行動してるだけ。
あなたの本当の「気持ち」はどこにあるのか、毎回再確認すれば、いずれ、自分の力を自分で使えるようになるでしょう。
健康に害をおよぼすものとわかっているのに、「リラックスさせてくれる」と信じて、自分の力を明け渡すのはやめて、自分の力は自分で使いましょう。
「これより、もっと体にいいのが、もっと安く買える場所しってる」のなら、自分の力でそれを選んでもいい。
未来がかわる。
結論:いじめや村八分のないコミュニティはある
どこにいっても、意地悪な人が「いれば」、必ず、ターゲットにされた私だが、
なんと。「意地悪な人がいないところ」も何個も経験している。
そういう職場などは、毎日が感動でいっぱいなことが多い。
「どこにいっても、そいういう人はいるよ~。だから、うまくかわす術を身に着ければいいだけだ」「どこにいってもそういう人はいる。だから、うまいこと言っとけばいいんだよ(ゴマをするとかね)」「そういうことには関わらないのがいい」
そういう考え方にも一理あり。事実、意地悪な人は、私の人生に必要ないから、私もなるべく、関わらないようにしていたのだけど、そういう人は、ターゲットをみつけたら、とにかく「関わってくる」「ほってはおかない」
でも。いじわるな人がいないところも確実に存在する。
面白いのは、そういうところほど、それぞれが個性的で、自分のやりたいことがはっきりしていたりして、みんな意見はかなりハッキリいう。そして、面白いくらいに、全員が毒舌?みたいにしゃべっていたとしても「そうだよね~」と、私が癒されることばかりいう。しゃべり方が毒舌でも、魂の核が、心底あたたかいんだ。
もちろん、そういうコミュニティの中でも「(仕事の仕方などで)なんかあの人は困るよね」という人がいないわけではないこともあった。
でも、普段から、問題を直視するタイプの人の集まりだから、本人にハッキリとそれを伝える文化がある。最初は優しく。そして最後まで優しく。そして改善されていくことも多い。
本当に困ったタイプの人は、人の意見は聞かないのだけど笑、それでもその困った人を虐めたり、村八分にしたりしない。あきらめずに、みんなで、あの手この手で伝え続ける。お昼休みや、仕事以外ではとっても仲良くする。
それでも、その人が改善する気がない場合。ちゃんと上司がでてくる。
いつも最高に優しい上司たち(わたしたちのミスを絶対に(絶対に!)責めないし、それどころか「この件は大変だったね。ありがとう。これこれこういう風に片付いたよ」と報告という形をとって、仕事を教えてくれたりする上司たち。自分の指示がミスだったときは「ごめんね、さっきは。〇〇さんが正しかったね」とどの上司も謝ってくれた。)
その中でも一番、いつも優しい(私たちに甘い)上司にかぎって、最終段階の時は、ものすごい断定的な意見を、問題を改善しない人に言ってくれる。
「その仕事の仕方は、周りのスタッフに非常に迷惑だから改善せよ」的に。
つまり。彼らは、コミュニティにとって、何が一番大切かを逃さない。
それは 愛 だ。
ちゃんと観察し、自分でも確かめ、証拠もつかんで、そして何回も、優しく、その人の改善を導こうとして、愛から行動し、行動し、行動して、なお改善する気もちがないスタッフに対して、最終的に「今のはNG」とまで絞り込んでいる。
他のすべてのスタッフはその上司に感謝しかない。
そう。文化だ。
仕事ができない、もたもたしている、離婚している、もしくは仕事ができすぎる、才能がありすぎる、美しすぎる、など、できないにしても、できるにしても、どっちにしても、虐める人はいじめる。自分がいい評価を得たり、目立つために、人を排除しようとすることも多々ある。
そして、そういう人間はものすごく沢山はいないのに、どんな論理を使ってでも、自分の仲間を増やし、裏なり表で、勢力をもつ力を使っている。表向きは優し気だったりもするし、たちが悪い。それも知ってる。。
だがしかし。そういうことに、「全く興味のない人たち」やコミュニティも実際あるんだよ♪
そういうところをいくつも経験しているけれど、いずれも、そこにいる人たちの考え方の基本は「自分の保身」ではない。だからこそ自然にできる美しい文化をもっている。
私はそういうコミュニティで出会った人たちと、今も仲がいい。
これからも、そういうコミュニティに出会っていくのだろう。
私はいつも同じ人間だ。
なのに、いる場所で、真逆の判断をされる。
グレーの日和見菌みたいな人ももちろんいるけど、それは友達じゃないから除外。
うまくすり抜けて、調子を合わせて一緒にマイナス波動だすとか全く興味ない。
あなたも、それでいいと思う。
あなたを「まとも」と判断し、むしろ「だいすき」と思ってくれる人たちは必ずいるんだよ。沢山いるんだよ。
巻かれる長いものに気をつけること
長いものに巻かれる人は多い。
長いものに巻かれてれば、うまく世の中渡れてるように見えるから。
そして、「どっちの方が、今、長いのか?」と、常に観察し、うまいこと巻かれるものを移ったりできる人も多い。
けど、けっきょく。みてて。あんまり。美しくないし。というか、あまりにも美しくない。
「今、こっちが長いわ!」って、そういう人が判断した「長い方」は、微妙に短かったりする。
あれ?って気づいて、こっちに移ってこようとするけど、またあっちに行ったり。
そんなこんなで、少なくとも、信用は失う。
最初から、長いものに巻かれなければいい。
というか、そういう人は、長いもの、になろうともするけど、悲惨だ。
少なくとも、保身や、自分の利益だけの為に、巻かれる長いものを選ばないこと。
そうしないと、本当に、未来をになう魂の美しい人たちに巻かれなくなってしまうからね。
微力だけど無力じゃない
今
「じじいは微力だけど無力じゃない」
という言葉を聞きました。
素晴らしいなこの言葉と思いました。
「自分はここでは無力だなあ」と思うことがあるけど、
確かにそうじゃない。確かにそうじゃなかった。
自分は微力だけど、無力じゃなくて、
いつも、行動した分、何かが始まる。
何か大きな結果に至ることさえある。
自分は微力だけど、大きな力を持つ人が、動いてくれる事につながったりする。
微力だからコツコツやる。だから結局できることもある。
微力でも無力じゃないって素晴らしい。恐れずに行動しよう。
よく考えたらわかること
私は非常に色黒です。
今もそうですが、小学生の時はほんとーに真っ黒だったもよう。
「黒人!」「黒人!」と、はやし立てられたり。
その「はやし立てられ方」が本当に嫌でした。とても・・・馬鹿にするようなエネルギー満載で。
「黒人=自分たちより下OR自分たちとは違う=お前はそんな存在」っていうエネルギー満載で、はやしたててくる男子たち。
でも、ある日
「?」「黒人って??」「何か悪いの???」「肌の色がすごく黒い人でしょ?」「何かいけないのか??」
と思い。
子どもなりに、ブラックの人を調べました。意識をもって、考えてみるようになった。
生きてる国が違うらしい。種族によっては、狩りとかしてたり、今でも裸みたいらしい。すごい目がよくて、高く飛べる人たちが今もいるらしい。運動能力、身体能力は半端ない人も多くいるらしい。
からの
音楽的センスとか。政治や思想の分野で感動的なお話があることを知ったりとか。
頭が悪いとかも一切ない。むしろ共感する考え方だったり・・・
そして結論しました。「何が悪いのかわからん」「黒人!黒人!と言われて嫌だと思う自分がおかしい」
色白な人は確かに美しいと本当に思いますが、色黒だからいじめられることもないし、ましてや「黒人」と言われて、当の本人が悲しむとしたら、当の本人も人種差別のエネルギーに加担してるのとおんなじだ。
当時感じたのはそんな感じです。(小学校の卒業文集にもそんな感じのことが書いてある)
認めてしまうと自分では知らぬ間に、自分も加担してしまっていることと同じことがある。
相手をまず受け入れることは大事などいろいろいわれますが、
否定しないと、自分も加担してるのと同じこともたくさんある。
だからよく考えて、人を差別したり、いじめたりするそれには、小さなことでも参加しないようになりました。
そして、幸い。
子どもころにしょっちゅう「黒人!」言われて「私は黒人♬」と思ったからかなんなのか。笑
学校では足も速い方であったし、中学生になったときには、幅跳びや高跳びなど、学年女子で一番とかもありました。地域の大会にでたらビリッけくらいの能力ですが笑笑。体育の授業なら跳ぶときに「私はブラックだし♬ 跳べる!♬」って、なんか変に、細胞が言って、スイッチ入る感じだった笑
自分の意識が変わったからか???そういう目で運動や音楽をとらえるようになったのかもしれません。
身体能力と音に関しての能力はちょっと変わっていたみたい。ずいぶん大人になってから、ダンスをしていても、何人もの先生に「音楽的感性がすごい・・・」「日本人の感性じゃないんだよね、音のとらえ方が」とよく言われていました。
素人レベルの話で、大したことないとしても、小さいころに意識がガラッと変わったことが影響してるかもしれない。
ブラックの人を、まるで友人のようにみる事が、小さいころにできるようになった。
毎日「黒人」と言われて、自分もその一員であるかのように感じたんだと思う。
音を表現したり、聞き取ったり、跳んだり走ったり。「自然の中で、文明関係なく生きられるって素晴らしい!!」と自然の中で自然を破壊せずに生きている種族に憧れたり。
本気で自分の肌が白くないことを誇りに思っていました。
いじめられてるからこそ、自分を保つためにできた思い込みかもしれない。だから感謝しないとね。
小学校で、私を「黒人!」といって、いじめてるつもりだった男子たちは、
「肌の色が黒い人(主に先に住んでいた民族のような方たち)」のことを何も知らなかったのに、「なんか自分たちと違うし服とか着ないなんておかしい。遅れている」って感じてて、そこでストップしてしまったんだろうけど・・・
そもそも、文明社会にいきてるから、賢いのか??とか。
本当にいろいろ考えられました。
よく考えたらわかること。でした。
自然と調和して生きていられるなら、それが一番。
肌が黒い人だから全ていい人とかでもないし、日本人も、ホントにいろーんな人がいるし・・・
つまるところ、よく考えたら、というより、もっとちゃんとよく見て、自分の中で客観的に真実をみつけてそれを全身で感じたら、解放されることも沢山あるよね、という感じでしょうか。
行動するときを逃してはいけない。
保育園の時、究極にいじめられていました。
教室の角に追い詰められて、お稽古事の月謝(園児にとっては大金)を渡せと言われ、
渡せないと言ったら、また追い詰められて、トイレに行かせてもらえず。
強制的におもらしをさせられ。
おもらしなど、絶対にしない私に、おもらしさせて、究極な辱めをうけさせました。
そして、その次は
「おまえはおもらしした、汚いやつだから、粘土を食べろ」
と粘土を食べさせられました。
小さいころ、車酔いも激しかったけど、当時の粘土は小麦などでできてなくて、石油?などでできていたのか?すごい石油くさかった!!それを食べさせられて。すごく気持ち悪い味!!とにかくこの世のものとは思えない!!気持ち悪い!!!匂いと味。
吐きそうになった。今でも、その感覚は覚えてる。(吐けばよかったのにね。怖くて怖くて吐くこともできなかった。)
おもらしさせられた時は、悔しくて、悲しくて、ただ、泣きました。
保育園でそんなに泣くことは他に一度もなかった。
保育園の先生は「〇〇ちゃんがおもらしするなんて。おかしいわね。絶対そんなことない(いつもちゃんとできる!)のにね」って・・・非常に不思議がってましたが・・・ 私は理由を言わなかった。ただただ泣いていた。ただただ涙があふれて。
いじめる人は、本当に汚い。先生の前ではとてもいい子だ。
先生に「〇〇された」と言っても「みんな〇〇ちゃん(私のこと)が好きなのよ」とか言われるから、言わなくなった。
「好きなら、そんなことする?」「好きならやっていいのか?」
と思って保育園時代生きてました。
私がいじめられている、その時、みんなは、遠くにいた。いつだって遠くに。
でも、それが終わると、私のそばにきて「大丈夫?」とみんな本当に優しかった。
おもらしさせられた直後も、「これで拭きな」って優しく雑巾をもってきてくれた男の子がいた。
だから、みんなを大好きだったけど、心の中で
「今じゃないんだっ!!!」って叫んだ日がある。
いじめられてる子は、いじめられている最中に、助けてもらう必要がある。
「そんなことは、すべきでない!」と、みんなで、「その時」に言って!「その時に止めさせて!」と思って生きてました。
でも。怖くて、誰もできないんだね。と思ってた。
それも理解できた。
だって、本当に私がやられてれば、他の人はやられないわけで。当人の私は本当に恐怖の日々なわけで。つまり、私が犠牲になってる以上は、みんなは安全だから、助けてとは言えない。変わってとは言えないんだ。と思って耐えていた。
ある日、あまりに辛くて、保育園を抜け出し、一人で家まで帰りました。
母は「なんで帰ってきたの!!」と怒り、「先生に迷惑!あなたはわがままで(母にも)迷惑!」と私を怒鳴り、すぐ保育園に謝罪の電話を入れました。「申し訳ありません。うちの子、わがままで」
私が、なぜ、帰ってきたか、は一切きかなかった。
「いじめられてる」のは話してたけど、「あなたが悪いんでしょう?」
だったし。まさか、4歳の社会で、そんな悪質なことあるわけない と思ってたんでしょうか。
でも!違うある日。
お残りしていて、いつもと違う、新人の若い先生と一緒でした。
その日は、たまたま、新しく母が買った、私の園服が届いて、持ってたんだけど、
「みせろよ!」と言われ、見せたら、「女のくせに、青と緑だっ!女はピンクかオレンジの園服だろっ!」とものすごいせめられ。囲まれて。怒鳴られ続けた。
そもそも私が選んだ色じゃない。母が「あなたは女の子だけど、ピンクが似合わないから」と言って、勝手に買った色だった(とは言え、当時は、自分も水色は好きだったけど。青とグリーンは好きというわけではなく。女子はみんなピンクを着てたんです)。
いつもこんな小さなキッカケから、大きないじめに発展するから、恐怖で打ち震えていたら。なんと!!!
その新人の先生が飛んできた!!!!!
「なにしてるのーっ!!!!」って怒りの形相。しかも!ものすごいスピード。
いじめっ子がビビッて、とっさに言った言葉は「だって女なのに、ピンクじゃない」
笑笑
先生は、そのいじめっ子が私から取り上げた青と緑の真新しい園服を、乱暴に取り返しながら、
「女の子だって、青も、緑も着るの!!!!!!!」っとすごい剣幕で怒鳴りました。
彼らがいじめてるのは明白だったから、そのいじめに対して、いかってくれてるのがわかった。
そして私に青と緑の園服を渡してくれて。「大丈夫?」と。優しく優しくしてくれた。
本当に。神だ。うれしくて泣いた。
そう。
だから。行動するときは逃してはいけない。あとでいい人ぶってもだめ。
助けられる人がいるなら、見て見ぬふりなんてしない。
いじめっこに負けたりしない!不当にいじめられてる人がいたら、その場で助けるんだ!
その時は感動で泣きながら、先生に感謝しました。
行動するときは「今」、と感じたら、すぐ行動する。
それが、私が保育園で学んだことです。